Kudryavka Niimiが適当に喋る感じのあれ。

ネットワークエンジニア見習いの日常系ブログです。鉄道や野球や漫画アニメとか、趣味関係の話が多めになる予定。

出会いの瞬間?

今朝、ぬぼーっと電車に乗ってて思いました。
どのくらいの人が僕を覚えていてくれているんだろう、と。
今まで生きてきた中で、僕の交友関係は極端に狭かったと思います。今現在も。
でも、学生としての最低限の友達は作ってきたつもりです。
しかし、その友人たちとも、外で遊ぶことはあまりありませんでしたし、学校で会ったら他愛ない話をするくらいでした。
 
小学生の頃の友人。
覚えてないでしょうね…。苗字が変わってるので、そこで気づいてくれる人がいたらいいな、くらいです。
 
中学生の頃の友人。
市内で会えば何人かは気づいてくれるかな?という感じ。
 
高校生の頃の友人。
3月までは普通に会ってたっちゃ会ってましたが、受験だなんだで忙しく、学校に行っても会わないということも多々ありました。まだ、覚えていてくれてる人もいそうです。でも、来年の今頃にはもう、かなり減っていることでしょう。
 
僕みたいな、空気のような小市民は、会わなくなった瞬間から真っ先に忘れられていく存在なんです。
唯でさえ少ない友達が、時間が経つといつの間にか消滅してしまうんです。
 
ここで思ったことが、一期一会というのは素晴らしい言葉だな、と。
「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう。」
=「人と人との出会いは一度きりでかけがえのないものだ。」
なんと美しい考え方ではありませんか。
 
しかし、ついついネガティブ思考に走ってしまう僕は、いや待てよ、と。そうじゃないだろ、と。
「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。」
その通りです。この瞬間は今しかありません。
でも、あなたと会ってない時間もたった一度きりですよね?
だから、「あなたと会っていようといまいと、この一瞬を大切に思い、自分がしたいことをしましょう。」
ではないかと思うんです。
僕なんか、孤独さえ愛し笑ってられる人間ですから、そういう時間も大事にしたいと思うんです。
 
いつか、人は一人になって、誰かの思い出の中に生きてくだけ。
でも、“みんな”の中の僕は、忘却の彼方へと落ちていく。
それは勿論、逆も然りなわけで。
要するに、自分の中の自分こそが真の自分であり、他者の中の、他者から見た“他者”である自分が存在できる時間はそんなに長くはないと思うのです。
そして、いずれ自分が生きた意味すら消えるんです。
どうせ忘れてしまう。或いは忘れられてしまう。
出会いは別れ。一期一会。他者と自分のつながりなんて、そんなもんなんです。
だから、「人との出会い」が大切なのではなく、自分が生きるこの一瞬、「一度きり」にこそ、重要な意味があるのではないかと。
だから、「時は金なり」が正しい、というのが僕の持論。
 
一期一会とは、「人との出会いは一度きりである」というだけの意味に落ち着くべきのかなと。
 
そりゃ生きてれば、苦しいことも、辛いことも、人間関係で悩むこともあるでしょう。
でも、難しく考えなくていい。だって、「一期一会」なんだから。
 
一期一会は、そんな意味使われるべきではないか、と思います。
 
楽しめるときはとことん楽しむ。今は今にしか存在できないのだから。
僕は、いつか“みんな”と過ごした日々も忘れて、どこかで生きて行くことでしょう。ただ青い空の下で。
ゆとりとか言って馬鹿にしないでください。ゆとりを望まずして生まれたゆとり世代なんですから。
 
…と、ここまで書いて気付いたのは、自分に友だちがいないのはこの性格のせいに違いないということ。
そりゃこんなめんどくさいやつ、友だちにしたくないよなぁ。
あ、でも、こんなことを誰かに話した覚えないです。
小市民としてひっそり生きていきたい僕としては、どんなことでも目立つようなことはしたくないですから。
 
結局、なんで友達できないんでしょうかね?
人を寄せ付けない人嫌いオーラ?孤独が好きだから?トーク力の無さ?
 
…原因は多々あるようです。